幕末から明治にかけて活躍した山川浩。
彼とその周辺の人物、関連するあれやこれやについて調べたものの個人的メモ。
山川浩 略歴
弘化2年(1845) | 11月6日 会津若松本二之丁にて生まれる。初名 与七郎。諱 重栄 | |
安政7年(1860) | 父・山川尚江重固 死去により家督相続(無役) | |
文久2年(1862) | 6月16日 物頭被仰付 薪番組々頭・御籏奉行 先輩次第 (山川常盤 千石) | |
文久3年(1863) | 藩主松平容保 京都守護職として在京中 上京の命あり | |
慶応元年(1865) | 6~7月頃 御奏者番被仰付 | |
慶応2年(1866) | 10月 遣露使節団 小出大和守(小出秀実)の随員としてロシア・フランスへ(翌3年5月帰国) | |
慶応4年(1868) | ||
明治6年(1873) | 3月17日 陸軍省八等出仕被申付 7月10日 任陸軍裁判大主理熊本鎮台在勤被申付 8月 熊本在勤被差免 12月4日 熊本鎮台在勤被申付 12月30日 任陸軍少佐兼任裁判大主理 |
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明治7年(1874) | 4月5日 任陸軍中佐 6月14 叙正六位 |
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明治8年(1875) | 1月24日 熊本鎮台幕僚准官参謀被差免 | |
明治10年(1877) |
3月22日 征討軍団参謀被仰付 5月27日 出征別働第二旅団参謀被仰付 11月24日 旧出征別働第二旅団残務取調御用被仰付 |
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明治11年(1878) |
1月30日 勲四等に叙し年金135円下賜 2月 兼任陸軍裁判所評事 12月14日 名古屋鎮台幕僚参謀長兼名古屋衛戍司令官被仰付 12月16日 免兼任陸軍裁判所評事 |
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明治12年(1879) | 3月27日 名古屋衛戍司令官兼勤被免 | |
明治13年(1880) | 4月24日 任陸軍歩兵大佐 6月8日 叙従五位 |
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明治15年(1882) | 3月1日 名古屋鎮台参謀長被免工兵第四方面提理被仰付 | |
明治16年(1883) | 2月5日 免本職補人員局長 | |
明治17年(1884) |
2月21日 歩兵内勤書第四版取調委員被仰付 5月7日 歩兵操典改正並平時行軍勤務書編纂の取調委員被仰付 |
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明治18年(1885) | 4月7日 叙勲三等賜 旭日中授章 5月25日 兼補輜重局長 |
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明治19年(1886) |
3月1日 補総務局制規課長 3月6日 兼任東京師範学校長 4月29日 兼任高等師範学校長 同日 叙奏任官一等年俸千円下賜 6月17日 叙勅任官二等 10月28日 叙従四位 12月6日 小学読本巻一編纂審査委員を命ず 12月23日 任陸軍少将 |
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明治20年(1887) | 5月6日 師範学校職員服制取調委員長被仰付 | |
明治21年(1888) | 12月25日 陸海軍将校分限令発布により当日より予備 | |
明治22年(1889) | 11月25日 大日本帝国憲法発布紀念章授与 | |
明治23年(1890) | 9月29日 貴族院令第一条四項により貴族院議員に任ず | |
明治24年(1891) | 8月13日 叙従三位 依願免本官 | |
明治31年(1898) |
1月26日 総動功特授男爵 2月4日 午前5時死去 忠烈院殿靖誉桜山大居士 |
<参考>
山川浩君之傳(高木盛之輔)
文久元酉年ヨリ同二年戌迄 外様分限帳(一)
幕末会津藩往復文書
日本-明治31年2月6日号「山川少将の任官履歴」